必要だったからと始めたもの
これだけの本物の曲芸飛行を見てしまった本田宗一郎氏が大空への夢を馳せるのはごく自然なことだったのかも知れません。高等小学校を卒業すると東京都文京区湯島にある自動車修理工場で創立間もない旧アート商会(本郷で設立して今は長野県上田市にあります)に入ります。6年勤めた後に、本田宗一郎氏が唯一と言われるのですがのれん分けをして静岡県浜松市に支店を設立する形で独立します。経営は順調でしたが東海精機重工業株式会社の社長に1937年に就任し、今の静岡大学工学部機械科の聴講生となるなどを経て、ついにはアート商会浜松支店を従業員であった川島末男に譲渡してしまい、東海精機重工業の経営に向き合います。このときにトヨタ自動車株式会社が東海精機重工業に対して出資を行っていました。この後の旧本田技術研究所を設立するところは既に述べました。2年後に浜松において従業員20人で本田技研工業株式会社を設立して二輪車の研究を本格的に開始します。これは戦後の時期に買い出しで苦労をしていた妻であるさちの自転車に対してエンジンを付けたら楽に行けるように出来るのではないかという発想が元でオートバイ研究が始まったと言われます。よく言われることですが、まさに必要は発明の母ですね。
この様にして、ホンダの輝かしい歴史がスタートしますが、会社は個人の持ち物ではないというポリシーの元に身内をホンダに入社させないなどの哲学や、レースに次々に開発した新車種を走らせることから、「走る実験室」と呼ばれた、といった有名なエピソードが目白押しです。但し親族経営の関連会社は存在しています。1973年には社長を退き、1983年に終身最高顧問となり、アメリカ合衆国の自動車殿堂入りは日本人初で1989年のことでした。この頃は自動車レースの最高峰であるフォーミュラワンでホンダのエンジンを積んだ車が16戦15勝するなどを始めとして幾つかのコンストラクターで無類の強さを誇っていました。1991年に亡くなった筋金入りの物作りのプロであった本田宗一郎氏の功績を残そうと本田宗一郎ものづくり伝承館が2010年に生まれ故郷の静岡県浜松市天竜区にNPO法人の手によって運営が始まりました。
